昭和四十三年一月十六日 朝の御理解
御理解第二十一節
「信心せよ。信心とは、わが心が神に向かうのを信心というのじゃ。神徳の中におっても、氏子に信なければおかげはなし。カンテラに油いっぱいあっても、、芯がなければ火がともらず。火がともらねば夜は闇なり。信心なければ世界が闇なり。」
信心とは、わが心が神に向かうのを信心とゆう。信心なければ世界が闇なり。ですから、信心とは光であるとゆう事が分かる。信心とは、光を頂く事。神徳の中におっても、信がなければ、おかげをおかげと分からん。神徳の中におっても、神徳を神徳と悟りきらん。そこに不平不足の生活、所謂難儀な生活がある。そこで信心なければ、世界が闇なりとおっしゃるが、この世を闇の世、苦の世にしてしまう。そこでお互いの心が神に向かって信心になるのです。そこから頂けるのが、御神徳である。そうゆう光が、世の中を明るくするのである。自分の周囲を明るくするのである。まず自分の心が神様と一つになる。自分の周囲が明るくなってゆく信心でなければ、お道でゆう信心とは言わん。わが心が神に向かうのを信心とゆうのじゃとゆう風なみだしをもって信心が進んでゆかなければならない。
昨日は、ここの総代である堤さんの所の宅祭りが行なわれました。若先生が初めて宅祭りに参りまして、これは小さな教会の記念祭ですと言ってびっくりしとりました。私が、あちらに参りましてから、お風呂へ入る頃から気分が悪くなってきた。第一足が痛くて、それでしばらく横になっとりました。準備が出来ましてから、装束を付けてお祭りを仕えもした。お参りは、まあおかげ頂きまして、お参りあとの御理解をとかせて頂こうと、それこそ心をむち打って、はずませて頂いて、御神前に出らして頂いた。ところがです、お話をしかかりましたらです、お話がぴたっと止んでしまった。しかも、それは実に厳しい御理解であった。こうやって、にぎにぎしくお祭りを仕えさして頂いたが、御礼とゆうのは、結局御礼を言われる相手が、こげんまでしてもらわんでよかと、喜ばなければ御礼にならん。天地の親神様が向う向いてござったら、どうでしょう。ひとつも喜んでおられないとしたらどうでしょう。御礼にならない。
こうして日々頂いておる広大なおかげの、その御礼の万分の一にもなりませんが、こうさせてもらわなければおられないとゆう心情が、あのお祭りに表れているような信心にならなければならない。まあ言うならば、本当に素晴らしいお祭りであったとゆう褒め言葉だけではいけない。ここに堤さんの、いや堤さんだけではない、堤さん一家の信心が、もう一段とわが心が神に向うておる信心になってこなければならない。
私は、どうしても二の句が続かんもんだから、心中祈念さしてもらった。そしたら御心眼に頂きます事は、初めに今はどうか知りませんが、昔、機械のない時代、縄はみんな手ないでございました。それには、まず、わらをきれいにすぐらなければならない。次にはそれが、慣らかされてから、たたかれ、適当に柔くなるようにして、そしてなえ上げられた、縄であって、良い縄であり強い縄である。そこんところの過程を、まあゆうなら、昨年の宅祭り迄は、奇麗にわらをすぐったところだったろうと思う。それこそ有難いお参り後の御直会といわれる御説教も聞いていて気持がよいような御理解であった。
ところが、さあ今日は御理解を頂こうとはずんでおった人なんかは、ああがっかりしただろうと思うのです。二の句がつがれんような事で、しかもこれだけのお祭りをしておられるのに、例えばこうゆう形のお祭りじゃあいかん。一年間の間に信心が、これ程進みました。心がこれだけ神様に向かいました。おかげでこれだけの光も出来ました。闇の中にささやかながらも、こうして灯がついてゆける。周囲を明るくする事が出来ましたとゆうものでなからなければならん。そこで神様は、もう去年のような事ではいけん。お祭りが去年とどれだけの進歩であったのかと、まあ、言葉をもって言われるなら、そうゆうようなものじゃあなかったろうか。これは堤さん親子、一家に対する神様の願いとゆうか、神様の気持とゆうか、気持があればある程、神様はこのように、厳しくでられるのであろうと、私は思う。わらをすぐって奇麗になった。この奇麗なだけじゃあいかん。そこで昨年一年間の間に、叩いてこられた、いや叩いて柔らかにしてこられたとゆう感じ。まあ現在、実際な面?でもです。いろいろなお商売の上でも、叩かれておられるとゆう感じ。その叩かれておる時ですから、もうそれこそ本当に叩かれながらでも、お袖に縋ってでもとゆう、そうゆうような雰囲気がです、あのお祭りにでていなければならなかった。獅子は子供を千尋の谷へ蹴落として、はい上がって来た子供だけしか育てないと言われています。それこそ百獣の王としての威厳とゆうか、力とゆうか、そうゆうものが獅子にはなからにゃあならんのに、もうへこたれ腰のごたる子供は育てない。私は、そうゆうようなものを、堤さんの宅祭りに感じました。
金光教、合楽教会、今こそ、そうでもないけれども、将来は必ず全国に、九州に合楽ありと、私も皆さんも目指しておられると思うのです。しかもそこの教会の総代、平信者じゃあないです。合楽教会の総代がです、突き落とされて、はい上がってききらんごたったら、合楽教会としての総代じゃあない。百獣の王と言われねばならん。ゆうなら涙を飲んで、こげなこつでつまるかと蹴落とすような感じ。そこに親の苦心がある。只、本当に賑やかに出来た、有難かっただけではいけない。こげなお祭りではつまらん。内容がない。合楽教会の総代の宅祭りがこんくらいの事でよいか。問題は内容の事です、と言うて、なんや知らんけれど、蹴落とされたような感じでしたねえ。ここから堤さんの信心がです、一段と輝かしいものになる為に、ここんところのはい上がり、今叩かれておる。その叩かれておる事で、それを練って練って練り上げて、そのわらが柔らかになっていくところから、私は強い縄がなえ上げられていく様に、信心には全てに過程がある。
信心とは、わが心が神に向かうのを信心じゃとおっしゃる。今叩かれておるとゆう事は痛い事である、損な事である。おかげじゃないけれども、その事を通して分からせて頂くところの信心が神に向かうてゆくのである。信心なければ世界が闇なり。果たして、その世界の闇にです、どれ程の貢献をしておるか、どれ程の明かりを灯す事が出来ておるか。合楽教会の総代とし、このような事ではでけんぞ、普通の信心ではでけん。お祭りといったようなものは形式ではいけない。形ではいけない。自分の一年間の、ゆうならば答案を出したようなものである。形の上に於いても、内容の上に於いても、ここんところを厳しく、よりよく反省させて頂かねばならない。
私は思うのです。私共がこの世に生を受けて、何をか、この世の中に残しておけれる、私共の生きがいとゆうものを、どこに置くか。堤注連吉とゆう人が一人北野の町におられたおかげで、周囲にこれだけ明るいものが、人が助かって、こうゆう風におかげを受けた。その受けてゆく範囲がです、段々広くなっていくとゆう事にです、生きがいを感じられる信心、言葉だけじゃあいかん。形だけじゃあいかん。自分自信が、本当の力にならなければ周囲が明るくならない。その光を頂く為にはです、只、形の上のわらをすぐる様にです、只、奇麗になっただけじゃあいかん。そこんところに神様の願いがですねえ、様々な問題を通して、藁が叩かれ叩かれて柔らかくし、その藁をもって、なえ上げられた縄であってこそ、よい縄が、強い縄が、お役に立つ縄が生れる。
私共は、この世にどれだけお役に立ったかとゆう事なんです。あの世に行って、例えて言うならば、閻魔さんの前で、お前は生前どれだけ世の中のお役に立ってきたかとゆう時に、なあにもお役に立っておらないとゆうような事であってはならない。自分の事だけにきゅうきゅうとしたような、御利益だけ目指すような信心で、おかげの頂けるはずがない。ここでわが心がいよいよ神に向うてゆく信心をさしてもろうて、そして私の存在がです、世の中に、こうゆう貢献をさしてもろうてから、こうゆう風にお役に立たして頂いた。御用に立たして頂いた。健康もよかろう、財産もよかろう、けれどもその健康が財産が、本当に神様に喜んで頂くようなお役にどれだけ立ったかとゆう事。堤商店なら、堤商店の上にです、どれ程の御用に神様が使おうとしておられるか、又御用に立ちたい、御用に立ちたいとゆう念願と神様の御用に使おうと思召す心が一つになってゆく為には、只、藁がすぶられたから、これで立派になったとゆうだけではいけません。やはり叩かれなければ、為には、やはり様々な事を通して、それをもって藁を叩かれるような事がある。そこを悟らしてもろうて、叩かれただけじゃあいかん。叩かれて、柔おならにゃあいかん。叩かれたら、いよいよ和らぎ賀ぶ心が大きくなっていかなければならん。叩かれただけじゃあつまらん。その事を通して、こうゆう事が分からして頂いて、しかも一家を挙げて、こうゆう風に進まれ、心が神に向うてゆく信心が、その事を通して、でけていくとゆう事が神様の願いです。そこに私は、本当に強い、お役に立つ縄がなえ上げられてゆくようになるのです。私共は、そこを目指したい。本当に、まず私共が、そこの信心を頂かなけりゃあいかん。光を頂かなけりゃあいかん。その力やら光やらが、どれだけ世の中を明るくしたり、世の中の為にならして頂いたかとゆう事に、お互い生きがいを感じさせて頂くような信心を頂かなけりゃあいかん。信心なければ世界が闇なりと、おっしゃる。私共が、闇の世から、闇の世をたどったんでは、つまらない話ある。この世に、光の世の中住まわせて頂いてから、あの世も、又光の世に続かして頂くのでございますから、そこんところを思うたら、いよいよ本当の信心を分からしてもらわなけりゃあならないと思うのでございます。どうぞ。